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繰り上がりのある足し算2 [学習]

 

前の記事で、繰り上がりの足し算を教えたとき、3つの数を足すことがなかなかできなかったと書きました。例えば、

 

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   6

 

1と7と5を足すことがなかなかうまくいかなかったのです。私もその日は一通り手順を繰り返し教えはしましたが、別にできてもできなくてもいいという気持ちだったので、その後は放っておきました。そして先日、久しぶりに乙女ちゃんが算数の問題集をもってきてたので、復習もかねて繰り上がりのある足し算をやってもらいました。そうしたらなんと、完璧にできるようになっていたのです。

 

上の問題でいえば、「1と7を足して8」と言いながら

 

  1

 378  8

+158 

   6

 

と8を脇に書いて、次に「8と5を足して(8を基準にしてそこから片手で5つ数えることは一桁の足し算の記事で練習済みなので、その通りに片方の手で指で数えながら)9,10,11,12,13」と言いながら

 

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  36

 

と書き、「1と3を足して4」と言いながら

 

 11

 378  8

+158  4

  36

 

と脇に書いて、「4と1を足して5」と言いながら、

 

 11

 378  8

+158  4

 536

 

と完全にできるようになっていたのです。

 

しかも別に彼女は私が教えた後に何度も自分で練習したわけではないのです。算数の問題集のページの日付を見ると、数ヶ月前、つまり以前教えた日の2,3日後で止まっています。つまりそれ以降は彼女自身も手をつけてないのです。彼女も久しぶりにやったのです。それでも以前に2日程度の間だけですが繰り返し教えたことがしっかりできるようになっている。

 

いやはや驚きました。おそらく教えたときは情報量が多すぎて頭の中で整理できなかったことも、頭の中には残っていて、時間が経過していくなかで彼女自身の頭の中でそれらの情報が熟成され、いつの間に一連の手順を整理できるようになったのだと思います。

 

と同時に、とても簡単なものは暗算でできるようになっているものもありました。昔は5+2でも指で数えないとできなかったのですが、頭の中だけでできるようになっていました。なんとなくでも、数の感覚を身につけていっているのだと思います。

 

だからといって、何か数学的な高度なことをやらせようというつもりはありませんが、脳の使い方が以前と比べてあきらかに向上している様子を見るのはよいものだと思いました。

 

これまでも、どうせわからないだろう、ではなく、とりあえずやりかたを伝えておくことで、少しずつ彼女の生活上のスキルが向上してきた経緯はあるのですが、今回は数の計算という明確な形でそれを目にすることができて、改めて、とにかく伝えておくこと、の重要性を感じました。

 

できることを無理に強要するのではなく、とりあえず繰り返し伝えておき、情報を頭の中に残しておくことで、彼女の脳はダウン症者なりのペースでそれらをゆっくり吸収していくのだと感じました。

 

なお、計算自体がどうということよりも、私は、少し入り組んだ手続きをしっかりこなせるということを評価したいと思います。将来、どんな仕事をするにしても、ダウン症者に計算など誰も求めませんが、一連のまとまった手続きをきちんとこなせるということは、どんな仕事にも必要になるからです。

 



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繰り上がりのある足し算1 [学習]

 

以前に、一桁の足し算の話を書きましたが、実はそのきっかけとなったのは、乙女ちゃんが三桁の足し算の問題集をもっていたからです。もちろんやり方はわかりません。解答をうつして丸して満点、というの彼女のやり方なのは以前書いたとおりです。

 

そこでまず一桁の足し算のやり方を教えましたが、あたりまえすぎて気がつかなかったのですがその時、一桁ができれば、三桁だろうが四桁だろうが式上の計算は可能であるということがわかりました。ただし、繰り上がりのない場合に限りますが。なぜなら、複数桁の足し算は、式を作りさえすれば、あとは上と下の数字を一桁づつ足していくだけだからです。

 

事実、一桁のやり方を教えた直後に、問題集の三桁の足し算の形式的なやり方を教えたら即できるようになりました。式の上と下の数字を片手の指を使って数えていくだけだからです。ある意味、一桁の足し算をたくさんやっているようなものです。

 

それじゃあ、繰り上がりのある計算問題はどうかなということでちょっと教えてみることにしまいた。さすがにこれは難関だったようです。

 

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+158

 

繰り上がるときに、左隣の縦の列の一番上に1を書くように言う。下の部分に書いてもいいのですが、細かい字が書けないので上に書くことにしました。

 

  1

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+158

   6

 

この次が難関なのです。3つの数を足すことがなかなかできないのです。上から順に足すにしても下から足すにしても、とにかく2つの数を足した後にさらに足す、という手続きが困難のようでした。下の2つを指で数えて足して最後に1を足すだけ、と言っても、この最後の1を加えることも彼女にとってはなかなか大変のようでした。1を足すという私たちにとっては何でもないことが乙女ちゃんには困難なのだと改めて感じました。

 

なのでそれ以降の計算は形式的なやり方自体は教えることができましたが、繰り上がった1を足し忘れるということがよくありました。計算問題というのはシビアなものでそれだけでもう不正解です。計算問題は逃げ道がないなと感じました。

 

もう少し時間をかけて慣れさせれば、1を足すことも忘れないできちっとできるようになるのかもしれません。しかし私は計算教育オタクではないので必要以上に乙女ちゃんにやらせるつもりもありません。他に重要なことはたくさんあるからです。

 

ただ私がいつも心がけているのは、ちょっと面倒そうに思える手続きでも伝えていこうということです。この計算問題でも、3つの数を連続して足すことが苦手なので不正解になってしまうだけで、三桁の式の計算の手続きはや流れ自体はマスターしているのです。

 

なのでダウン症者にも、単純なことばかりではなく、こうしてこうしてこうしてこうするとこうなる、といった少しいりくんだ手続き的なことを伝えていくことは大事だと思います。途中に苦手な部分がない限り、確実にマスターしていくはずです。



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一桁の足し算 [学習]

 

乙女ちゃんは数を処理することが非常に困難なようなので、無理してまで計算などを教え込もうというつもりはありませんでした。足の悪い人を無理に歩かせようとしたり、目が悪い人に小さい文字を読ませようとすることがナンセンスであるように、数を処理するのが困難な人に無理に計算をやらせようとしてもそれはある意味、虐待に近いように思えたからです。

 

健常者でも算数や数学に苦手意識を持つ人は多いですし、この分野ほど得意不得意がはっきり分かれる分野もそうそうないような気がします。数がたくさん出てくるとめまいを起こす人もいれば、そこから何かの法則性を見つけてしまう人もいます。得意な人から見ると、なんでこんなことがわからないのか、と不思議に思うもののようです。

 

これは私たちがダウン症者をみるときと同じ感覚だと思います。なんでこんな簡単な足し算もできないのだろうか?と。しかしそこが健常者とダウン症者の違いであり、こればかりは脳の処理の問題なのでどうしようもありません。健常者の常識で話をしても仕方ないのです。

 

乙女ちゃんも、たとえば4+5は?と聞くと頭の中でじーっと考えて、あげくにはあくびがでてくる始末でした。この原因はもちろん先にも書いたように、そもそも数を処理するのが苦手なことであろうと思われます。しかし、それだけでしょうか? そもそも足し算のやり方を知っているのだろうか? きちんと教わったのだろうか?知ってて苦手と知らないで苦手では意味が違います。

 

乙女ちゃんは数えることはできます。なので最低でも4+5を指で数えることで答えを導くことはできるはずです。しかしそれをしません。そこで思った結論は、いつも通り。結局彼女は最低限のやり方すらまともに教わっていないのだな、ということです。最低限のやり方などをすっ飛ばして、彼女の能力以上のことばかり要求されてきたのではないかと思えてしまいます。

 

乙女ちゃんは普通学級で、健常者が教わるやり方で健常者のペースで授業を受けてきたので、結局何もわからないまま置いてきぼりをくって、それを挽回する機会が一度もないまま今に至ったような感じでした。

 

健常児なら小学校一年の時に足し算が苦手でも、さすがに一桁の足し算くらいは、生きていく過程の中で自然とどこかでマスターしながら挽回していくものですが、それができないのがダウン症者なのです(環境にもよるでしょうが・・・)。ダウン症者の場合、自然をあてにしないほうがいい、というのが私の考えです。特に、最低限のやり方、基本中の基本のやり方をしっかり教え込むことを怠って、自然に頼るという安易な発想はすべきではないと思います。

 

そこで一桁の足し算のやり方を教えることにしました。ここで注意して欲しいのは、これは乙女ちゃんに計算をマスターさせることが目的ではありません。へたに教える側が欲張るとろくなことはありません。あくまでも頭の体操をする程度の気持ちです。今まであまり使わなかった脳の部分にほんの少し負荷をかけることで脳が少しでも活性化すればいいな、程度の気持ちです。

 

やり方と言ってもおおげさなことはなく、単に指で数えるだけのことです。大事なのは口で教えるだけでなく、彼女の前で具体的に実践してみせることだと思います。そして彼女にもやってもらいながら、間違っているところを修正していくわけです。

 

ただ鉛筆を離して毎回両手で数えるのは、彼女にとっても作業的に面倒みたいでしたし、効率も悪いので、ちょっと面倒に思える手続きを最初に頭の中でしてもらいました。これがベストなどとは到底思いませんが乙女ちゃんはこれをすぐにマスターしたので、乙女ちゃんの場合はこれでいいと思いました。その方法は、

 

1. 4+5の大きい方を頭にうかべる。

(どちらでもいいのですが、数える量は少ない方が間違いが減るとの思いです)

2. 頭に浮かべた数からスタートして、片手で小さい数の分だけ数える。

私 :「まず大きい方はどっち」

乙女:「5?」

私 :「そう、5を頭に浮かべて、そこから小さい方の数だけ指を折って数えて」

といいいながら、片手の指を一本一本折りながら、6,7,8、9と数えるお手本を見せる。

 

その後、数問やることで彼女もやり方を理解していきました。大きい数に大きい数をそのまま足したりするときもありましたが、それはその都度指摘することで改善していきました。また、指で数えるのをさぼって、結局ぼーっとしてしまうときもありましたが「格好つけないで指を使って」と指摘しました。「指を使えば間違えない。指を使うのは格好悪いことじゃないからちゃんと指を使って」としつこくいいました。その他細かい指摘をいくつかしました。この指導時間はざっと30分くらいでしょうか。

 

さらにその後に50問くらい問題を出したら、彼女は片手に鉛筆をもちながら、もう片方の手で指を折って声に出して数えて問題を解いていきました。コツがわかったのか、慣れると途中からはさっさとやってしまいました。ちなみに全問を解く時間は10分くらいだったような気がします。間違えはたった3問。どこが間違えたのかを確認させました。

 

彼女にとってはこんなにたくさんの足し算を自力で解いたというのは初体験だったようです。これまでは、答えを見て写してマルして満点、というのが彼女のやり方だったのです。私が「ズルしなくも自分でできるじゃん」と言うと彼女もなにやら満足げに「~君(仮想友達)も足し算のやり方しらないと思うから、教えてやらないといけないなぁ」などと得意になっていました。

 

ダウン症者は数を処理するのは苦手のようですが、数えることはできます。数えることを利用して、数になじませることは可能なようです。数になじむ前にへたに計算技術をマスターさせようとしても、結局何もできないままで終わるのがオチのような気もします。まずは数えることを活用して、それを通して数に対する感覚を少しずつ磨いていくのが現実的のように思えます。



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書き写す勉強 2 [学習]

 

今まで私が書いたことを振り返ると、私が「書き写す勉強」を全面否定していると思われてしまいそうなのですが、それは違います。乙女ちゃんのやってきた書き写す勉強を見て思ったことは、「ただ」書き写すだけではその勉強の効果は非常に薄いのではないか、ということです。

 

「ただ」書き写すとはどういうことかといえば、例えば、発音も意味もわからない英語の文章をただ書き写すことを思い浮かべればよいと思います。英語でなくてもハングルでもアラビア語でも未知の言葉ならなんでもいいです(日本語の場合は私たちはすでに無意識に単語や文節として認識する能力がついてしまっているので、ダウン症者の追体験はできません)

 

そこにかかれてある文章を単語や文節として認識することなく、発音や意味を教わることなく、アルファベットやハングル文字やアラビア文字を一つ一つ個々に書き写すことを考えてみましょう。こんなことをどんなに大量にどんなに長い期間やっていても発音も意味もわかるようにならないのは明らかでしょう。

 

ダウン症者にとっても似たようなことだと思います。彼らがやっているのは外国語じゃないんだから、と思われかもしれません。しかし母国語だからといってたかをくくってはいけないと思います。母国語でもダウン症者にとっては、目の前の文章が単なる文字列にしか見えないらしく、それを単語、文節として頭の中で構成し直すのが健常者よりも困難なようです。それができるようになるには、それなりの訓練と慣れが必要になるのだと思いました。

 

その訓練を省いて、「ただ」書き写させておけばいつかはわかるようになるだろうと期待しても、それは無駄な労力をさせるだけで終わってしまうように思います(無駄ではない、何らかの意味はきっとあるはずだ、と思われる人もいるかもしれませんが、あえて無駄という言葉を使わせてもらいます)。

 

乙女ちゃんは、すべてではありませんがほとんどを、特に知らない表現や知らない言葉は確実に、単語や文節として認識しながら書き写しているのではなく、でてきた文字をそのまま書き写す習慣ができてしまっていました。

 

例えば極端な例ですが、「これまで見てきた様に」という文章があったときは

 

「これ」を見て「これ」を書き写す。「ま」を見て「ま」を書き写す。「で」を見て「で」を書き写す。「見」を見て「見」を書き写す。「てき」を見て「てき」を書き写す。「た」を見て「た」を書き写す。「様」を見て「様」を書き写す。「に」を見て「に」を書き写す。

 

といった感じです。明らかに言葉として認識しながら写しているのではありません。単語や文節は無視して、テキトーに区切って見たままを写しているのです。いつまでもこんなやり方で書き写してきても、正直、私はほめようがありませんでした。これを勉強として認識して、それをやっていればいつかきっともっと頭がよくなると本人が信じているのなら、これほどかわいそうなことはありません。なぜならこんなことをいくらやってもなかなか言葉を覚えていかないし、言葉のセンスも養われないからです。

 

書き写す勉強は、「ただ」大量の文章をやみくもに書き写す作業をさせるのではなく、それをさせる前の段階としてあるいはそれと平行して、短い文章(12)でよいので

 

きっちり読み方を教え、

きちんと声にだして読めるようにさせ、

その後、書き写す

 

といったような作業をパックにした訓練をどこかの時期に少しずつでも導入する必要があるのではないかと思います。少ない文章でも正確にしっかりと読む訓練を重ねることで、少しずつ、未知の文字列(文章)でもどのあたりで区切ればいいのかなどのが養われていくのだと思います。書き写す作業をさせたいのなら(個人的には必須とは思っていませんが、どうしてもやらせたいのなら)、こういった訓練をおざなりにしてはまずいと思います。

 

目の前にいるダウン症者が、文字列(文章)を、どの程度単語や文節として識別しながら書き写しているのかを周囲がしっかり把握して、そのレベルにあわせた訓練を行わないと、せっかくの書き写す作業も無駄な作業と化してしまいます。これではやってる本人がかわいそうです。

 

そうはいっても、教える側の負担が増えてしまうのはいろいろな意味でよくありませんが、以前にも書きましたが、私はたまに乙女ちゃんに短文を読んでもらうことがあります。その際に23行の文章の読み方を教える時間は15分程度です。あとはその文章をしっかり文節ごとに正確に読めるようになるまで反復練習させればいいだけです。日々、反復するのは乙女ちゃんなので、教える側の私の手間の総合時間は、間違いをチェックする時間を合わせても20分少々といったところでしょう。一気にたくさんやる必要はなく、1週間に2,3個の短文と考えれば、教える側も大した手間ではないように思われます。

 

短文を声に出して読ませるとわかると思いますが、区切るべきところを棒読みしたり、まとめて言うべきところを区切ったりします。これらを明確に本人に意識させながら正確に読む練習をすることは、後々出会うであろう未知の表現を識別し理解する上でも大事なことだと思います。

 

私は週に1度、23時間くらいしか乙女ちゃんにはあいませんから、漢字の読みの勉強以外の時間は日常会話に使わないとかわいそうなので、短文を読む勉強はごくたまにしかしませんが、それだけでもずいぶんと文字列(文章)に対するセンス()がよくなってきたと感じます。欲張らずに少ない文章を少しずつしっかり正確に文節ごとにくぎって読めるようにすることでそのセンス(勘)が養われるものだと感じました。

 

書き写す勉強はこの後の段階、あるいはこれらと平行させてやるべきことのように感じます。

(ただし、言葉の練習ではなく、文字そのものの練習ならば、つまりひらがなやカタカナなどの個々の文字そのものの練習であれば、テキトーに書き写させることは悪いことではないでしょう。)



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まとめる [学習]

 

私が乙女ちゃんと話すのは週に一度ですが、私が教えている漢字の読みの予習と復習程度のことは、一週間もかかるわけではなく、家で1,2時間もあればできてしまいます。その他の日々の時間は、彼女は彼女なりに今まで通りのことをしているようです。

 

そんな中で先日(といっても2,3ヶ月前ですが)、久しぶりに乙女ちゃんが勉強と称して使っているノートを見る機会があり、それを見て少し驚いたことがありました。

 

ちょっと話が前後しますが、以前にも彼女が書いたノートを何度か見たことがあるのですが、それは何度も書いたように写し書いたものでした。

 

私 :「どんなことが書いてあるの?」(彼女のノートをさして)

乙女:首をかしげる

 

といった感じでした。

 

これはこれで別に否定はしませんが、私は少し違和感を感じていました。写し書くことができるようになるのにも相当な時間がかかったのかもしれませんが、彼女と対話を重ねていると、既に彼女は(作業としての)この程度のことは吸収しきってしまっていて、今の彼女のレベルにそぐわない、つまり、彼女のレベルはさらに上を目指しているように感じていたのです。ただやり方を知らないからレベルアップできないだけのように感じたのです。

 

そこで、一年くらい前でしょうか。私は彼女に「どうせ書くならさ、自分なりに考えながら書かないと勉強にならないんじゃないの?」とえらそうなことを言いました。「写すのもいいんだけどね、ちょっとここからここまで読んで、何が書いてあるのかを自分なりに考えて書いてきてよ」と。「写すだけじゃなくてね、自分で考えて書くの。これを「まとめる」って言うの。ね、自分なりに考えてまとめてきて。」

 

ちょっと難しいかな、と思ったので、「絶対にやってくること」とは言わず、まあとぼけてやってこなかったらそれはそれで無理強いするのはよそうと考えていました。やるやらないは別として、とりあえず伝えることは伝えておこうという気持ちでした。

 

一週間後、彼女は彼女なりに考えて、自分の言葉で書いてきました。読めない字やわからない言葉が多いので、当然その「まとめ」は的外れな内容です。しかしそれはただ無機質的に写し書いたものではなく、明らかに彼女の意志を感じました。わからない言葉や文字を彼女なりに考えて使用した、へんてこではあるが、彼女自身の文章でした。

 

「やればできるじゃん!」私は心からほめました。

 

ただ無責任なことと思われるかもしれませんが、「まとめる」練習というのは、漢字の読みを教えるような単純なこととは違うので、私も深追いはできません。写し書くという単調な作業に、すこし能動的な作業を組み込めれば彼女の発達に役にたつんじゃないかな、程度のつもりだったので、それ以降のやるやらないは彼女の意志に任せていました。

 

以来、ノートを見ることもなく、まとめた?といちいち聞くこともなく時が流れていきました。

 

そして久しぶりに先日、たまたま彼女のノートを見る機会がありました。前に見たのと代わり映えしないんだろうな、と思っていました。そしたら、そのノートにはなんと「まとめ」という項目が付け足されていて、そこにはへんてこな内容ではありますが、自分なりに考えたことが書かれている。また別のところには、的外れな場所ではありますが「これをまとめること」とメモしたりもしている。それは以前のようなだらだらと意味もわからず写し書いていたノートとは明らかに違っていました。まとめだけでなく、その間に私が期待しないでとりあえず言ったことが反映されていました。枠付けなどのレイアウトも施され、彼女の意志や主張が伝わってくるノートに仕上がっているのです。

 

私 :「ちゃんとまとめてるんだ!」

乙女:「うん!!」(堂々とした態度で)

 

伝えておいてよかったな、としみじみ感じました。



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予習 [学習]

 

勉強のやり方に関して、乙女ちゃんのそれまでの考え方を大きく切り替えたと思われることがあります。それは、

 

わからない漢字を私のところに持ってくる、つまり予習をする

 

ということです。

 

これまでにも私が漢字の読みや言葉の意味を教えていることは書いてはきましたが、実は、教え始めてから23ヶ月くらいたったときに、私自身、本の中からわからなそうな漢字を選ぶのが面倒になってきていました。私ごとで恐縮ですが、これが素人というものです。

 

しかしこれが彼女にとってはある意味よい転換期になったようでした。私は彼女に、読めない漢字や言葉を本の中から自分で探して、紙に10個~20個ほど書いてくるように言いました。要するに、勉強の準備を自分でしてくるように言ったのです。つまり予習です。

 

これは彼女にはあまり縁のないことのようでした。私と会うまでは、前回も書いたように、本の中の文章を絵のように写し書いておしまい。写し書いたものを振り返ることもなく、意味を考えることもなく、他のことを考えながらかにやにやと写し書いて、勉強したと言ってほめてもらうのが彼女の習慣のようでした。

 

私と会ってからも、私が指示した漢字を、見ないで読めるようにすることはできるようになりましたが、自分で読める漢字を自慢することはあっても、読めないものを自分からいうことなどありません。それどころか、わからないものは無意識に視界からはずすようになっているような感じさえ見受けられました。

 

読めない漢字を書いてくるように言った後、彼女はその意味がわからないようで、読める漢字を書いてきました。知っていることやできることを披露して自慢するのは彼女の得意とするところです。彼女としてはこれでほめられると思ったはずです。しかし何故かほめられません。違う、と私に言われます。

 

私  :「これ読めるじゃん、読めないのを書くんだよ」(笑いながら言う)

乙女:「え???」

 

彼女にしてみれば、読めるのに注意されるなんてめったにない経験だったのかもしれません。読めるのがなんでいけないのかわからないようでした。私は本を開けて「これ読める?、読めない、じゃあこれを書く、ね、これは?、読めない、じゃこれも書く」とゆっくり説明しました。そして数個読めない漢字をピックアップさせた後、その漢字の読みを教え、あとはいつも通りに読み仮名を見ないで読めるように練習します。

 

以来、読める漢字が含まれながらも、彼女なりに読めない漢字をピックアップしてきました。読める漢字は書いてこなくてよい、と繰り返し言いながら、読めない漢字を書いてきたときはほめます。彼女にとっては不思議な感覚のようでした。読めないことや、知らないこと、できないことはひたすら隠してきたつもりなのに、それを書いてくるとほめられる。逆に読める漢字を書いてくると注意される。おかしいなぁと思ったことでしょう。

 

「これが本当の勉強、わからないことを書いてくる、それを教わる、その後覚える、ね、実はみんなやってきたこと、だから乙女ちゃんもやらないとね、がんばって」

 

彼女は最初はよくわからないながらもうなずいていました。

 

わからない言葉を探すというのは、意識を集中しないとできません。知っているか知らないかをその都度自分の中で分析する必要があります。これは彼女にとっては大変な作業だったかもしれませんが、慣れが解決する問題でもあったようです。慣れてしまった今では、とくにストレスもなく当たり前のように難なくやってきます。この程度のことは吸収できてしまう能力はあるのです。

 

今でもたまに読める漢字を書いてくるときがありますが、それに気づくと「あれ?、これ読めるな、またやってしまった、私いつもボーッとしながら書いちゃうんだよなぁ」と笑いながらやっています。



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副産物 [学習]

 

乙女ちゃんの仕返しとして、私も彼女の問題をやる羽目になっていますが、まあ彼女の前で格好つけても仕方ないのでわからない漢字は空白のままです。わからなければ彼女も喜ぶので、本当に1分程度でササっと書いて彼女に渡しています。

 

当初は私もこの程度のことで彼女が少しでも満足するならという感じでやっていましたが、なんだかんだいっても彼女がやることが多くなるのがミソで、しかし、それでも彼女は自分の目的(つまり彼女が作った問題を私がやるという行為)が果たされているので、自分の作業が多いということには苦に思っていないようです。

 

お互いに問題を出し合うというのは、学生の頃は誰でも経験のあることではないかと思います。人に問題を出すというのは、まがりなりにもそれなりの責任が必要です。問題を出して答えを知らないではすまされないからです。出したからには、正しい解答を相手に与えなければなりません。

 

たかだか問題を出し合う程度のことで責任というのも大げさに聞こえるかもしれませんが、しかし、大なり小なり確かに私たちは無意識にこういった責任を他人とのやりとりの中でとりながら生活しています。

 

遊ぶにしたって、例えば、かくれんぼをするときは、鬼になった人は探す責任があります。探さないで帰ってしまったら話になりません。あまりに常識的なことなので、この程度のことでいちいち責任などという表現を普段は使いませんが、しかし、鬼になった人は探す責任があることは確かです。子供が遊びを通していろいろなことを学ぶというのはこういうも含まれているのでしょう。

 

乙女ちゃんは、他人との関わりが極端に少なかったようなので、たまにこういった私たちが無意識に当たり前のように身につけてきた事柄が欠如していることがあります。前の記事にも書いたように、問題だけつくって、解答を用意しないということを平気でしてくるのでした。

 

(他にも例えば、なぞなぞと称して、1.パンダ、2.リンゴ、3.チューリップ どれですか?と聞いてきて、「正解は猫です!」とわけのわからないことを言ってきたときも過去にあります。他人との具体的なやりとりの欠如というのはいろいろなところで影響が出てくるのだと思い知らされました。「その答えさっきの3つの中にないじゃん」と聞くと、彼女はきょとんとしていましたが、「3つの中から答えを言わないと意味がわからないんですけど」と3択問題の出し方を具体的に教えると、そうだったのかという顔をしながら「あ、間違えた」ごまかしていました。) 

 

彼女は私に問題を出すことで、彼女は私に正しい正解を教えなければなりません。そのためには、私に出した問題の順番通りに解答も用意しなくてはいけません。正しいかどうかを確かめるためには、ひらがなでも一字一句私のものと比較しなければいけません。そして、いくつあっているのかを私に伝えなくてはいけません。それら一つ一つを丁寧にやって初めて問題を出す側の責任が果たされるわけです。

 

乙女ちゃんの答えが、たまに明らかに違うときもあります。辞書に書いてある読み仮名を写し間違えるのでしょう。私はその場合は「それはこうなんじゃないの?」とあえて指摘します。「正しい解答じゃないとこっちが困っちゃうじゃん」と冗談っぽくでも言うことにしています。なぜなら、きちんと相手に正しい正解を伝えるのが問題作成者の役目だからです。彼女も笑っていますが、しかし内心、少なからずやばいと思っているはずで、次からは恥をかかないようにきちんと解答を書いてこようと意識が強くなっているようです。

 

また彼女は最初は間違ったものだけを数えて私に言ってきました。彼女が大いに関心があるのは私の「間違い」だからです。

 

私は「間違いだけじゃなくて、何点なのかもつけてくれない?」と言いながら、問題が10個あって正解が7個のときは7/10と書くと意味が通じるといった、点数の付け方の例を教えました。こういったことは知ってればできるし、知らなければいつまでも知らないままです。知っていればできることはさっさと教えて活用させるのが一番です。

 

彼女は今では当たり前のように難なくこれら一連の作業をこなしています。

 6/10   4個まちがい

と間違いの数はを書くことは絶対に省略しませんが…。



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仕返し [学習]

乙女ちゃんは私への仕返しのチャンスを狙っているときがあります。いつも自分だけ何かをやらされていることが気に入らないと感じるときがあるのでしょう。自分も何かをさせたい、自分も教えたい、と思うのです。子供によくある心理です。私と彼女は原則的には対等であるので彼女も対等な人間にやらされてばかりでは何か腑に落ちないのだと思います。

 

彼女が私に何かをさせようとするとき、私は面倒なことでなければ付き合うときもありますが、ほとんどは却下します。「乙女ちゃんは言われないとやらないでしょ。私は言われなくてもこれもこれもこれも自分でやってる。だからそれはやらない」。乙女ちゃんは何やら不服そうながらも、あきらかに自分のやっている量の方が少ないことを認識して諦めます。

 

ある日、乙女ちゃんは電子辞書からランダムに引っ張ってきた漢字を10個くらい書いた紙を持ってきて、私が読めるかどうかを書かせてテストしようとしました。これは彼女が漢字や言葉に馴染むことにもなるし、私も読み方を書くだけなので1分もあれば対応できます。なのでこれには付き合うことにしました。

 

しかしやみくもには付き合わないのが私です。人に何かをやらせるからには自分もそれなりの準備をする必要があることは認識させなくてはいけません。彼女は自分もわからない漢字をただ絵のように書いて持ってきて私をテストしようとしてました。私が答えを書いても彼女はそれがあってるかどうかもわからないのです。これでは話になりません。

 

「問題を人に出すのならちゃんと答えも用意してこなくちゃダメじゃん。答えがないのならやっても意味ないからやらないよ」

(本当は自分もわからない問題を人に出すなと言いたいところなのですが、さすがにそれは酷なのでせめて解答だけは用意しておくことを要求したのです。)

 

 

数日後、彼女は問題とは別の紙に解答を書いて持ってきました(解答の作り方がわからなそうだったら具体的に教えようとは思っていたのですがこれは必要ありませんでした)

 

私は読みの答えを書いて彼女に渡します。彼女は自分で作った解答をみて答えをチェックします。彼女は私が読めなかった漢字を見つけると、ニヤッとし「これ読めないの?」などと言ってきます。答えが間違っているといちいち「これ間違えてるよ」とうれしそうに言いながら、なにやら優越感に浸っているようでした(辞書から引っ張ってくるので日常では使わない難しい漢字が含まれているのです)。

 

そして私が書いた読みのひらがなを見て、書き順が違う(こんなことはひらがなを見ただけでわかりようがないのですが、おそらく自分が小さいときに言われたことをいつか人に言ってみたかったのでしょう)などと、ここぞとばかりにブツブツと指摘し、ひらがなを上からなぞって添削したりしていました(まちがっていないのにとにかく添削という行為をしたいらしい)。チェックし終わると、

 

「これとこれを復習してくるように!次から読めるようにしてください!」

 

と言ってきました。私が彼女に言ったことをやっと彼女も私に言うことができて満足げでした。

 

これで彼女は読めない漢字があるのは自分だけではないということを認識し少しは安心するでしょう。それに自分だけやらされているわけではないということで私が普段出している日常漢字の読みの課題も抵抗なくやってきます(たまにサボりますが)。

 

原則として私はわざとは間違えません。最初は彼女は自分が知っているレベルの漢字を書いて持ってきていたのですが、私が「こんなの簡単」「誰でも読める」と、いとも簡単にやってのけてしまうので(私は相当レベルが低い事柄と思える場合はあえてさっと流すことにしています。いつまでも彼女がそのレベルで満足していることが必ずしもよいとも思えないからです)、彼女はいろいろ考えたあげく、辞書で調べて漢字を引っ張ってくることを思いついたのだと思います。さすがにこれでは私も読めない漢字や初めて見る漢字がいくつもあります(蚯蚓や烏賊など読めませんでした)

 

彼女は私への問題を作るのが相当楽しいようです。おそらく私が「わからない」「読み方教えて」というのを想像しながら問題作成をしているのでしょう。事実、いつも「読めるかなぁ~」とニヤニヤしながら問題を渡してくるのですが、その手元にはさらに数枚の物が既に準備されているのでした。

 



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具体的に [学習]

 

私は小さいときから、指摘をする人にはたくさん出会いましたが、それじゃどうするのかを教えてくれる人にはあまり出会いませんでした。日本人というのは暗黙に何かを悟らせることを相手に要求し、明確にものをいわないで、間違っていたら指摘ばかりする大人が多いように思います(といっても外国人を知っているわけではないのでなんともいえないのですが…)。私も日本人なのでそのヶ(気)がないとはいえないし、これを読んでいる方々も正直に自身を振り返ればそのヶ(気)がないとはいえないのではないでしょうか。

 

しかし本当に子供たちが知りたいのは、じゃあどうすればいいの?ということなのではないかと思われます。私たち大人は「自分で考えさせることが教育」という名目で、そのあたりを曖昧にしていることが少なくないのではないでしょうか。

 

あるいはダウン症者などの知的障害者に対しては、本人の意向を尊重するという名目のもとで、なるべく指摘すること自体をしないようにしていることも少なくないのではないでしょうか。

 

指摘しっぱなしか、あるいは指摘しなさ過ぎるか、というのは普通の子供にもそれほどよいとは思えませんが、特にダウン症者にとってはさらによいことではないものと思われます。指摘しっぱなしでは卑屈になるだろうし、指摘しなさ過ぎではその場の楽しさを与えることはできるでしょうが成長が極端に遅くなります。ただでさえ成長するスピードが遅いのにさらに輪をかけて遅くさせておいて、「それがダウン症」などと結論づけられては彼らもたまったものではないでしょう。

 

ダウン症者に対しては、彼らに何かを指摘し、彼らが自分で考えられるようにするためには、とにかく最初は具体的な例を与えていくことが必要なことだと思います。

 

例えば、私は乙女ちゃんと出会ってから数ヶ月後、漢字を読めるようになった方がいいんじゃない?と乙女ちゃんに言いました。乙女ちゃんも当然そんなことはわかっています。それじゃ彼女が漢字を読むために何をするかといえば、・・・。なにもできません。彼女は具体的に何をしていいかわからなかったのです。

 

一般的な人のおおまかな思考の流れ:

わからない → わかりたい どうするか じゃあ覚えよう (たいていはその後、自分で解決できる)

 

乙女ちゃんの思考の流れ:

わからない わかりたい どうするか わからない

or

わからない わかりたい どうするか じゃあ覚えよう でもどうやって? わからない

 

といった感じで先に進めなくなってしまうことが多いようでした。私たちが当然のように飛び越える部分を、乙女ちゃんはついついわからなくなって停まってしまうことが多いようでした。そして周囲も知的障害の限界と解釈するのか、無理をさせてはいけないと思うのか、停まったところで放っておくことも少なくなかったのではないかと思います。

 

私たちが何かを知りたいと思い、そのやり方を勉強して途中で先が見えなくなったとき、放っておかれたり、「わからなくても大丈夫だよ。気にしないでいいよ」などと言われても、あまりうれしくないこともあるような気がします。そうじゃなくて先を知りたいんだけど・・・、先を教えてほしいんだけど・・・、と思うこともあるのではないでしょうか。ただ相手の好意を無駄にしてはいけないので愛想笑いなどはするでしょうが。乙女ちゃんにもそういった思いをすることが少なくなかったのではないでしょうか。(しかし、「大丈夫だよ」という言葉自体が彼女にとって心地よいので、先を知りたいんだけれどもついついその言葉に甘えて停まってしまうことが多いのだと思います。)

 

実際、乙女ちゃんは、わからない領域に直面したときに、その都度、具体的に例を与えたりやり方を教えると、水を得た魚のごとくどんどん先に進みます(以前に書いたように時にはさぼりながら)。先日書いた覚え方なども、単純すぎていちいち教えることかと思われるでしょうが、実際に教えないと彼女はやり方を知らなかったのです。「覚えればいい」と私が言います。彼女はうなずきます。でもなにもできません。何故か。覚えられないからではなく、どうやって覚えたらいいのかがわからないからです。逆に、やり方と活用の仕方を知りさえすれば、ごく普通の労力で加速的に漢字の読みを覚えていきます(しかし課題として与えないと自分からはやらないのは健常児と同じ)。

 

乙女ちゃんは、いつも何かを教わるという雰囲気になるのはあまり好きではないようなので、私は彼女がおそらくやり方がわからないのだろうなと感じたら「たぶんこうすればうまくいくかもしれない」とさりげなく独り言のように、しかし具体的に話すこともあります。彼女は聞いていないようにしながらも、しっかり聞き耳を立てています。そして後日、私が言ったことをあたかも自分で考えたかのごとく言ったりやったり、時には私に教えようとするときもあります。それでもいいでしょう。最後にできればいいのです。できないときはそれはそれでやり方を知ってもできなかったのだから仕方ありません(それでも一回だけではなく、ある程度の間隔をあけて、さりげなく具体的に言い続けつづけることは大事だと思います)

 

私は指摘はよくしますが、指摘しっぱなしで終わらせないように意識しています。なぜなら、先にも書いたように私も日本人であり、意識してないと指摘して満足してしまうヶ(気)がなきにしもあらずだからです。乙女ちゃんは、指摘しっぱなしだとどうしていいのかわからないことが多いようなので、指摘するからには、じゃあどうするのか、ということをセットで具体的に伝えることを意識しているのです。



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覚え方 [学習]

 

乙女ちゃんには乙女ちゃんなりの覚え方があるようです。何の脈略もない記号の並びを“暗号”と称して覚えていることがあります。よくこんな意味不明なものを覚えたなぁと感心することがあります。他にも彼女は自分の関心のあることは自分なりのやり方で少しずつ覚えていっているようです。これはこれで良いことだと思います。ただこれで感心して、彼女に覚える能力があるといって満足してしまっていては、この能力もここまでです。

 

知的障害を持たない私たちは大抵は、自分の関心のあることばかりを自分の気分のみで覚えていって成長してきたわけではありません。学校へ行って授業を受けさせられ、覚えされられ、訓練させられていろいろなことを身につけていったのです。要するに教育をうけてきたのです。社会に出ても研修などの教育をよく受けます。社会で生きるためには自分の関心のあることだけをやっているわけにはいかないのです。

 

だからといって乙女ちゃんに同じレベルを強要するのも酷な話なのでしょう。しかしながら、だからといって、自分の関心のあることだけを覚えているから良いというわけでもないはずです。彼女の関心のレベルを尊重しすぎて、いつまでもその範囲内でごちゃごちゃやっていては、彼女の成長は非常に限定的なものになってしまうでしょう。

 

乙女ちゃんは普通学級で他の生徒と同程度の課題を意味もわからないままやらされてきたものと思われます。例えば、単語を数個与えられてこれをいつまでに覚えてくるように、といった課題は普通学級ではよくあることです。私たちは、それらの課題のやり方を周囲を見て学んだのか自分で発見したのかはわかりませんが、自然にマスターしてきました。ノートに何回も書いて覚えることもあれば、単語帳に書いて正解を隠して読めるか読めないかをチェックしながら覚えていったこともあると思います。

 

乙女ちゃんを見ていると、少なくともその「覚え方」を知っているとは思えませんでした。周囲が覚えている姿を彼女はずっと見てきたはずですが、きっと彼女は何をしているのかを学ぶことができず、ただうわべだけ紙に書いたり、覚えたふりをすることしかできず、人がどうやって覚えているのか、その思考過程を自分で学ぶことができなかったようでした。つまり彼女は覚えられないのではなく覚え方を知らないだけのようでした。

 

基本的な覚え方というのは一度マスターすれば、後はそれを基本として自分でいろいろなアレンジができます。しかし基本ができていない覚え方のままではいつまでも似たり寄ったりのことしかできません。彼女は覚え方の基本を知らないので、学校で課題を与えられてもほとんど0点に近いという極端な結果になってしまったものと思えました。

 

私は、覚え方を知っていてできないのなら仕方ないですが、知らないことが原因でできないことを「知的障害だから」と見なすのはおかしいと思っているので、とにかく覚え方を教えようと思いました。

 

未知の漢字を5つ程度書き、読み方を下に書いて、「これ読めるようにして」といわゆる普通に課題を出してみました。彼女は数個まとまって与えられるとどうやって覚えていいのかわからない様子で、なにやら苦労しているようでした。なので覚える過程を一つ一つ手順を踏んで教えました。

 

・まず漢字を見ながら答えを読んでもらいます。

 

・次に答えを自分の手で隠してもらって5つの漢字を順番に読めるかどうかをチェックします。「見ないで読んで」というと律儀に彼女はわからなくても答えを見ようとしないので、「わからないときすぐに見ていい」と繰り返し言いました。

 

・あとはそれを繰り返すだけです。

 

たったこれだけですが、彼女はこのやり方を自然には学べなかったようです。この手順をマスターすれば、23分で5つの漢字の読み方など覚えてしまいます。

 

ただ次の週に同じ事をさせると若干おかしくなっていました。いつまでも答えを隠さないでやっていたので「隠して読んでみる、わからないときだけ答えを見る」という手順を徹底させました。最初の漢字の答えを確認した後、2番目からは漢字を見ないで答えのひらがなだけを読むときもありましたので「それじゃだめ」と、そこは見逃さずにしっかり答えを隠すことを強調して繰り返し言いました。この基本中の基本の覚え方をねじ曲げるわけにはいかないのです。

 

説明だけではなく、この手順をどういうふうに人は頭で「思い」ながらやるのか、具体的な頭の中の思考過程を見せてあげることも大事と思ったので、その「思い」を口に出しながら見せてあげることにしました。

 

「まず隠す、読んでみる、あれ、この漢字わからないな、よし答えを見よう、ああこういう読み方だったか、よしわかった、それじゃ次の漢字、この漢字はわかるな、よし次、これはわからないな、答えを見よう・・・」

 

と言いながら、その作業のお手本を見せてあげることもありました。彼女は納得した様子でした。私は週に1度か2度程度しか彼女には会いませんが、それでせいぜい45回の指導で、彼女もきちんとこの覚え方ができるようになりました。

 

この覚え方をマスターした後は、もう私は週に一度、10個から20個程度の課題を彼女に与えるだけです。あとは彼女はすきなときに自分で覚えてきます(実際は私と会う前の日にちょこっとやるだけのときもあるようです。つまりその程度で覚えらる程簡単で日々の生活の負担にならないということです)。そしてランダムに復習の課題も出すようにしました(しかしそれも5分程度でできてしまうものばかりなので負担とはいえないはずです)。

 

彼女が読める言葉はいくつになったでしょうか。半年で400から500個くらいのペースでしょう。その中に意味のわからないであろう言葉もかなりあります。しかしそれらは日常の中で頻繁に出てくる言葉ですので、この漢字の読みの反復練習を通してその音をなじんでおくことも大事だと思います。テレビの中や人の会話の中などで出会う機会も多いはずです。いつその言葉に出会うかはわかりませんが、出会ったときにその音になじみがあるのとないのとでは、その後の理解にも差が出てくると思います。(私たちも学校で習ったことが実社会でてくるとうれしく感じ、理解がさらに深まるものです。)

 

いずれにしても、私たちが自然にマスターしてきたこの数個の覚え方も、ダウン症者には意図的に指導しなければいけないことのようです。しかしひとたび基本をマスターすれば、数個まとめて効率的に覚えられるようになるのです。



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知識 [学習]

 

ダウン症者の一般的なことはわかりませんが、乙女ちゃんは基本的になんでも自分でやりたがります。たとえば、いろいろなホームページを教えてあげると、最初はそれをみて満足しますが、今度は自分で検索したい、と思うようになるようです(しかしひらがなでも正確に入力しないと検索できないし、漢字が読めないので変換違いに気がつかずなかなかうまくできない)

 

携帯の設定なども、最初はしてあげるのですが、自分でもしたいと思うのか、あちこちいじりまくります(しかし、個々の設定項目の漢字が読めないので、ただテキトーにいじるだけ。それで変な設定になり使えなくなること多々あります)

 

その他いろいろ、周りができて自分ができないのがくやしいわけです。これはまあ通常の感覚でしょう。ですが、頭の中にある言葉の知識の量がその気持ちについていかないため、できないままで終わることが多いようです。これはこれで彼女にとっては一つ一つが悔しいことでしょう。

 

また、彼女は知識欲にものすごく飢えてるように見えました。新しい知識を受け入れられる準備はできているのに、周囲から教わることは非常に少なく、結局できる潜在能力は使われないまま何年も過ごしてきた感じでした。(このあたりは、いわゆる養護学校(今は特別支援学校というのでしょうか?)や特殊学級にはいかず、ずっと普通学級に通っていた事も関係あるのかもしれません。他人からきちんとした指導を受けた経験が少ないのでしょう。当然、普通学級ではダウン症者にマンツーマン的な対応をすることは難しいでしょうから、まあ、せいぜい声をかけられる程度で、教育的には「ほったらかし」というのが実情だったのではないでしょうか。普通学級に行かせる場合、親御さんは、ほったらかし対策として学校の授業とは別の教育プログラムを考慮する必要があるでしょう。)

 

私がこのブログで、言葉などの学習面について書く理由はいろいろありますが、その一つとして、彼女のそういう様子を見たからです。中には、大人になってまでそんなにやらせなくてもいいんじゃないか、とか、勉強なんてどうでもいいんじゃないの、とか、一緒にあそんで楽しめばいいんだ、等々思われる方もいるかもしれません。しかし、彼女の「(知識がないが故に)したくてもできない」様子を見ていると、ただほめてよろこばせてあげたり、言ってる意味がわからなくてもわかったふりをしてあげたり、といった表面的な対応ばかりでは不十分に思えます。彼女が自分でいろいろなことを考え、できるようにするためには、やはりある程度の知識は早いうちに頭に植え込むことは必要だったのではないかと思ったわけです。

 

詰め込み教育はいけないと思われるかもしれません。しかし、私は乙女ちゃんに関しては、詰め込まなさすぎたのでは、という感想を持ちました。人間の思考は、年齢とともにある程度の水準の言葉や表現の知識量がないと伸びていかないのではないかと思えたからです。どの程度の水準が必要かと言われると答えることはできませんが、しかしそれにしても彼女の言葉や表現の知識量は極端に少なすぎるのです(小学生が日常で使える言葉よりもはるかに少ない)。そして、思考レベルがあまり発達せずいつまでも幼稚に見えるのは、この極端に少ない言葉や表現の知識量に原因の一端があると思うわけです。というのは・・・

 

彼女はいつも独り言をいいます。これで彼女は仮想の友達をつくって会話をしています。現実に会話のやりとりをする友達がなかなかできない以上、仕方ないですし、むしろこれは言葉の反復練習とみなせば悪いことでもありません。問題はその会話の内容や表現です。結局、言葉や表現の知識が少ないから、仮想友達との会話に出てくる表現のバリエーション(組み合わせ)も限定され、似たような言葉で似たような内容の繰り返しばかりです。内容もいつまでも幼稚です。表現が似たり寄ったりなので、思考も当然同じままです。これでは思考の幅が拡がりようがなく発達しようがないでしょう。

 

あるとき、私が彼女と話していたときに、たまたま私は「お互いさま」という表現を使いました。そうしたら、後日、独り言会話の中で「お互いさま」という言葉を使っている。またあるとき、私は「誤解」という表現を使いました。そしたら、後日独り言会話の中で仮想友達と「誤解」という言葉を使っている。このとき、ああ「知的障害だから 同じ表現をくり返す」のではなく(それまでは単純にそう考えていました)、「言葉や表現を知らなさすぎた から 知ってる数少ない表現をくり返し使うしかなかった」のかと思ったのです。

 

その後、私はあえて、日常会話で使われる言葉を入れて彼女と会話するようにしました。そしたら、どんどん会話の中に新しく覚えた言葉を入れてくる。そして何ヶ月かすると思考にも奥行きが出てきたように感じました。つまり結局のところ、いつまでも彼女の思考レベルや言葉のレベルが幼稚だったのは、その理由の一つとして、幼稚な言葉や表現しか頭に入っていなかったんだなと思ったわけです。頭に入っている言葉や表現の知識量が少なすぎなのです。それゆえに、言葉や表現の知識をもっと彼女の頭の中にインプットしていけば、少なくとも今よりはもっと、彼女の思考の幅も拡がっていくのではないかと思えてきました。

 

言葉や表現の知識はあればあるほど、世間から得られる情報の吸収力も格段に大きくなるでしょう。最低限の基本的な行動が一人できるようになったとしても、漢字が読めなければ、町中のいたるところにある文字媒体をみても、読めないものはいつまでも読めないままですが、漢字が読めれば町中の文字媒体から得られる情報がぐっと増えます。

 

また、言葉や表現の知識が貧弱だと、結局、周囲で交わしている言葉は理解できないことが多く、それゆえに自然に吸収できるものも非常に少なくなり、知的面での成長が限定されてしまい、ときに、これがダウン症者の知的面での頭打ち、限界などと解釈されがちです。言葉や表現の知識が増えれば、周囲が交わしている言葉が理解できることも多くなり、新しいことを自分の力で吸収できる量も格段に増えるでしょう。

 

もちろん、数の認識のように、言葉や表現の知識をたくさん吸収するのが困難な知能ならば私も無理にインプットさせようとは思いませんでした。知的障害の限界がそこにあるのなら私も何もしないでほおっておきました。しかし、これらは、繰り返し目の前できちんと対話してやるとマスターできることが多くて驚いたのです。これらはとにかくきちんと教えさえすればある程度マスターします。つまり極端に少ないというのは避けることができると思うわけです。

 

ただ、言葉や表現の知識が極端に少ないままでも、ほんの少しは世間から学び取ることはあり、そのほんの少しを根拠に、彼らなりのペースで成長してる、と解釈することもできます。それで十分だと考える親御さんも少なくないでしょう(このあたりは親御さんや施設関係者と私のような素人の他人との温度差があるとは思います)。乙女ちゃんも彼女なりには世間から吸収してきてはいるようでした。

 

しかし、私はこのような成長の解釈はダウン症者の本来の知能に見合った成長ではないと感じます。ものすごく過小な解釈だと思うのです。思考の成長が限定的でいつまでも幼稚に思える場合、その原因の一つとしてそれまでに得られた言葉や表現の知識量が極度に少ないだけで、適切な(これが難しいが!)知識量が得られれば、彼らはもっと自分を表現できるし、もっと自分なりの思考ができるはずだと思います。

 

そしてくり返しになりますが、言葉や表現の吸収力は、ダウン症者はかなりあると思います。健常者に比べたらペースは遅いですが、周囲が彼らに対して面と向かって様々な表現を使えば使うほど確実に身につけていくものと思います。新しい言葉や表現が身につけば、その言葉を利用して自らの思考の範囲も拡がっていきます。ですので、この言葉は難しいだろう、どうせわからないだろう、ではなく、どしどしいろいろな言葉や表現を繰り返し繰り返し使い、時には彼ら自身に反復させ(これが結構大事)、しっかり身につけさせることが、彼らの精神や思考の自立に必要であるものと思うのです。



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ささいなこと [学習]

生活環境によるのだと思いますが、乙女ちゃんは「あさって」や「おととい」の使い方がわかっていないようでした。こういう言葉は、知的障害者に対してはなるべく使わないようにするのかな、と、ふと思ったりもしました。実際に私も当初は、わからないならそれでもいいや、と思い、使うのやめようと思っていました。

 

しかし使わなくちゃわからないということで、意味を教えつつ、あえて「あさってまでにやってきて」とか「おととい言ったでしょ」という表現を会話の中に入れていきました。するとある日、たまたま今日の日付を聞いたら「今日は11日です!昨日は10日!おとといは9日!明日は12日であさっては13日!」と言う。そこまで聞いていないと思いながらも、確実にマスターしているので安心しました。その後はそういう使い方より、「明日休みだからあさってね」という表現も自然に出るようになっていました。(それまでは、「それじゃ明日休みだから、えっと、え~、また次!」という表現でした。これでも悪くはありません。しかし新しい言葉を使えることで、彼女自身がなにか充実感を感じている様子がありありとみえるのです。)

 

このほかにもいろいろありますが、私が言いたいのは個々の表現のことではなくて、家庭内や施設では、ともすれば暗黙に使わないようにしている表現というのがあるのでは?ということです。意識していなくても、家庭内のように何年も同じ人と暮らしていると、通常、似たような表現しか使わなくなるものでしょう。ただ、ダウン症者の頭脳も成長しています。昔はなかなかわからなかった言葉でも、いろいろな経験を経て、今はわかる頭脳に発達している部分も多々あるようです。

 

ですので、ある程度成長したダウン症者と会話するときには意図的に言葉をいろいろを言い換えて使うことも大切だと感じました。それによって、彼らが表現できる範囲もぐっと広がるはずです。自分の考えをうまく表現できないジレンマから解消させるためにも、いろいろな表現を身につけさせることがダウン症者にとって有益なことだと思うのです。



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書き写す勉強 [学習]

 

普通学級に通っていたダウン症者は、健常児のように、書くこと、特に文を写すことを中心とした勉強方法を会得している人も少なくないと思います。普通学級出身ということで、どうしても、健常者のやる勉強方法を表向き、まねしてることが多い結果からかもしれません。

 

私は、乙女ちゃんの写し書く勉強姿を見てて、最初は、まあなんらかの効果はあるんだろうなと思っていたのですが、何年も続けているわりに、日常漢字は書けず読めずで、語彙も少なく、表現も乏しい彼女をみてすこし疑問がわきました。そして、これは知的障害というだけのせいではなく、勉強のやり方にも問題があるのでは、と考えるようになりました。なぜなら彼女と会話をし続けていると、そんなに頭悪くないだろう、と思えることが結構あったからです。

 

(書き写す勉強を否定はしません。きちっと物を観察し模写するという訓練も必要だと思います。しかし、いつのまにかそればっかり、というのではちょっと問題ありと感じるのです。そして現在の多くの普通学級にダウン症児が通うと、いつのまにかそればっかり、ということになってしまうことも少なくないのでは・・・)

 

書き写す勉強というのは、見た目は勉強しているように見えるので、周りも感心してしまい、また事実がんばらないとできない作業なので、よくやってる、よく努力してる、ということで結論づけてしまいがちです。ですが、そもそも何を書いているのかもわからず、ただ字面だけを絵のように写すその作業をして、その労力のわりに、大人になってもろくに文章も読めず、表現も増えないでは、ダウン症者の将来にとっていいはずがないと思うのです。

 

ふりかえれば私も学生の頃、板書をノートに書き写していましたが、それはその場で理解するための作業ではなく、後で試験前に見返すために書いていただけであって、書いている最中は頭は何も考えずにただひたすら文字を写していただけだったということもよくありました。つまり書き写す作業は脳をあまり使わなくてもできるようです。

 

また、書き写して勉強するというのは、最初集中しているときは効果的ですが、だんだん集中力がとぎれてくると、いつのまにか字面を追って書いてるだけの作業になり、結果として何も身についていなかったという経験も多々ありました。しかも恐ろしいのは、何も身についていないのに、たくさん書いたから何か勉強したつもりになってしまって、勉強を終了してしまうことでした。

 

そういう思いがあって、彼女には、書き写す作業の合間に、未知の漢字にふりがなをふり、文章を2、3行の単位に分離して、ある単位の文章を一つ、毎日4、5回、声を出して繰り返し読む作業をしてもらいました。

 

本当は彼女が使っている教材(大学レベルの教科書)自体をもっと簡単なものにした方がよいとも思いましたが、彼女の親御さんは「同年代の人と同じ勉強」をモットーにしている方みたいで、これまでの経験と試行錯誤の上でこういう教材を選んでいるのでしょうから、それまでの経緯も知らないあかの他人の素人の私が目の前で意見することなどとてもできません。

 

それでも、彼女と対話して私なりにいろいろ考えることがあったので、余計なお世話と思われようと、書き写す作業の合間に、ほんの2、3行の文を一日4、5回だけ声を出して読んでもらうことにしたのです。

 

やり始めてみると、最初は一語一語たどたどしく読んでいたのですが(読んでいる途中であくびがでてしまうこともありましたが、あくびはしないように指示しました)、一週間もしないでその2、3行の文を結構すらすら読めるようになり、未知の漢字の読みも覚えてしまっていました。文節の区切りなども、きちんと指示すれば、回を重ねるごとに徐々にまともになっていきました。

 

もちろん内容や言葉の意味までは理解していないでしょう。しかし、読めなくては理解など論外ですので読めることがすべての第一歩です。また、音読推奨本の受け入りになってしまうかもしれませんが、声に出して読むことで、新しい表現を「使う」経験を何度もします。すると、意味のわからなかった表現でも、外国語と違って、使えば使うほどなんとなく意味や使い方がわかってくるようです。

 

(これは私たちが自然に経験していることで、私たちは知らない言葉をすべて辞書で調べたり人に聞いたりしているわけではありません。知らないときは知らないなりに、とりあえずその言葉を頭にストックしておいて、後々その言葉に出会ったときに、ストックしてたものを引き出し比較検討し、というのを繰り返し、徐々に意味を理解していくものです。読めなければストックすることもできません。)

 

また声に出して正確に読ませることで、滑舌がよくなってきたのには驚きました。この作業をしてもらって半年ほどで、話し始めた頃とは見違えるほど、表現や言い回しも豊かになっていました。もちろん、過度な期待はしてはいけません。何も知らない人から見れば、あいかわらず舌たらず的に聞こえるでしょう。ですが、私が彼女と話し始めて、単に会話をしていただけのときに比べたら格段によくなってきていたのです。

 

それになにより、読めないものをただ書き写す作業で、彼女の能力が停滞ぎみであった(と私は解釈しているのだが、その)ことを考えれば、短文の正確な音読ははるかに彼女の血となり肉となっている気がしました。会話の中にときおりでてくる覚え立ての表現の使い方がたまに間違っているのは愛嬌として、とにかく新しい言葉や表現を結構はやいペースで確実に自分のものとして身につけ、それを活用しようとしていることには驚かされます。

 

会話をし始めた当初、彼女の表現を聞いたり行動を見るたびに、知的障害というのは20才過ぎてもこの程度なんだな、この程度がやっとなんだろな、仕方ないんだろうな、という感想を持つことが多かったのですが、今は、接し方によっては、ダウン症者の頭脳も彼らなりのペースではあるが常に成長し続けるものだと感じてます。

 

(仮に彼らの頭脳が停滞してるように思える場合は、その原因は、できそうなことしかやらせない、同じようなことしかさせない過保護的な環境にいるからではないか、と思うようになっているのですが、そういう話題には微妙な問題が絡みあってるように感じるので、気がむいたときに後日書きます。)

 

現状の普通学級に通わせるとどうしても書くことを主体とした勉強方法になりがちだと思います。そしてそういう勉強を家庭の中でもしたら、親御さんもさぞかしうれしいことと思います。そしてその姿で大いに満足してしまうことも少なくないでしょう。しかし、それは見た目のよい世間受けする勉強姿にすぎず、彼もしくは彼女の身につくものは何かと問えば、実は中身はとても薄かったりすることも少なくないと思います。ですので、仮に、家庭で書く勉強に比重を置いてしまっている場合は、それよりも、、目、耳を使った勉強、訓練に比重をかけ続けるほうが身につくものが格段に違うと思います。

 

(同じ書く作業でも、写し書くことではなくて、自分の思いや考えを書く作業は能動的な作業なので大いにやるべきだと思います。ですが、たとえば漢字を書く練習に時間をかけたりといったことは、努力のわりにたいした効果はないようなのでほどほどにと感じます。)



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漢字の勉強 [学習]

普通学級でいわゆる「普通」に漢字の練習をするとき、読むことと書くことをセットにして書きながら覚えさせる練習が多いと思います。ですが、ダウン症児にとって漢字を書くことはかなり難しいみたいで、だからこそ通常以上の練習が必要なんだとも思いますが、結果として漢字勉強嫌いになって、ろくに日常漢字を「読めもしない」まま成人になってしまうことも多いのではないかと思います。

 

そして「読めない」ことでかなりの不利益を被ってる成人ダウン症者は少なくないのでは。何かの説明書きなどをみても、意味は知っているのに、読めないがために何もできなかったということも少なくないと思います。また、読めないと辞書の使い方を教えても意味を調べることもできず、あとで人に聞くこともできない。そして、読めないから語彙もなかなか増えないというのもあると思います。

 

(乙女ちゃんは電子辞書をもっていて使い方もマスターしています。しかし漢字を読めないので、漢字が含まれている言葉の意味を調べることはできません。また、漢字を含まない言葉を辞書で調べても、意味の説明には漢字が入っているので読むことができません。宝の持ち腐れになっています。また一人で公共施設においてあるチラシなどを持ってきて眺めているときもありますが、結局読めないのであきらめている様子の時も多々あります。その他もろもろ、読めればもっと自分でいろいろなことを吸収することができるのにと思うことが多々あります)

 

教育的には、読み書き両方というのが理想だと思いますが、現実問題として、私たちが生活していく際、漢字を読むことと書くこと、どちらに多くの時間を使うかと言えば、圧倒的に読むことでしょう。漢字を書かない日はあっても読まない日はないと思います。また、最低限ひらがなを書ければ自分の考えを書くことはできますが、読むことに関してはそうはいきません。

 

それで結局大きくなっても、読めそうな幼児向けの本ばかりが増え、それゆえに表現なども、いつまでも幼児的な表現しか身につかないという悪循環になっている感じがするのです。)

 

それでは、ダウン症者が漢字を読めないのは「読み」を覚えるのも困難だからか、というと案外そうではない気がします。読み方を教えて毎日数回、声を出して読むことを繰り返せば、意外にはやく覚えてしまうようです。読み書きセットで勉強してるから、結局、書く苦痛で練習する漢字の総数も少なくなり、結果として読める漢字も少ないままで終わっているのではないかという気がします。

 

二兎追うものは一兎も得ず。漢字の勉強は、読み書き同時ではなく、多くの漢字を「読む」経験をさせてから、「書く」練習をしても遅くはないのではないでしょうか。例えば、漢字を10個「読む」練習をしたら、その中の1つは書けるようにするくらいの気持ちで練習する方が現実的ではないでしょうか。「読める」漢字としてなじんだ後の方が、書く練習に移ったときも負担が少ないでしょう。それに、仮に「書く」ことをマスターできなかった漢字でも、「読める」というつぶしがきくので、現実的な不利益をなるべく避けることができるのではと思うのです。

 



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