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いくつかの疑問 [普通学級]

 

・就学を考えるときに、みんなが通常の小学校に行くのにダウン症児だけ特別支援学校へ行かせるのはかわいそう、か?

 

私はそれほどでもないように思います。そもそも学区域などの関係で、幼稚園・保育園の子供たちが皆同じ学校に行くわけではないでしょう。私など、小学校がたくさんある地域だったにもかかわらず、たまたま学区域境目にすんでいたため、私の保育園から同じ小学校に行った人はいませんでした。

 

たぶんそのときは少しは悲しかったのかもしれませんが、小学校に入ったらそんなのはすっかり忘れてしまいました。このあたりは個々の個性に依存する部分なのかもしれませんが・・・。

 

また、通常の小学校か特別支援学校かなどという区別は、いちいち親が言わなければ子供は気にしません。誰々は何々小学校、誰々は何々小学校、といったふうに、どこであれとにかく小学校に進学するという事実は共通なのです。へたに差別意識を与えてしまっているのは親御さん自身なのかもしれません。

 

 

・普通学級から苦情はないからうまくやっている、のか?

 

苦情がある場合は確かになにがしかのトラブルがあり、うまくやれていないのかもしれません。しかし、苦情がないから大丈夫、というのはどうなのだろう?と思ってしまいます。

 

ダウン症児は基本的に人に害は与えないでしょう。むしろ何かある場合は、自分で背負い込んで黙ってしまって我慢してしまうことが多いものと思います。そんな状態なのに、うまくやっている、みんなと仲良くやっている、などと言うのも何かちょっと違うように思います。少なくとも「苦情がない」=「うまくやれている」という解釈は短絡過ぎです。「苦情がない」=「ダウン症児は我慢している」が現実に近いのではないでしょうか。

 

 

・小学校から特別支援学校への転校を薦められると「やっかい払い」と解釈してしまう?

 

これは親御さんの被害妄想もあると思います。むしろ周りとはとけ込めなくなって、一人でいることが多くなっているにもかかわらず、周囲への害はなく静かにしているからということで、波風たてずに「よくやってますよぉ~、みんなと仲良くやっていますよぉ~」などと言う方がよほどたちが悪いものと思います。親御さんはこの言葉を聞きたいのかもしれませんが、子供の教育はあくまでも子供のためであって親のご機嫌をとるためのものではありません。

 

おそらく普通学級に固執している親御さんにとってはこういう先生が良い先生なのかもしれませんが、私には現状を正直に伝える先生の方がよほど誠意があり子供の将来を真剣に考えているものと思えます。

 

子供たちの行動を大人がすべてコントロールすることはできません。教師や親、あるいはその他の大人に、だれだれと遊べと強要されて遊んだってうまくいくものではないのです。それこそ管理教育・管理社会になってしまいます。

 

 

・いつもビリだけど普通学級で楽しんでいる?

 

そんなわけないでしょう、と思ってしまいます。そういう状況しか知らないからそれで仕方ないとあきらめてしまっているだけのような気がします。

 

また、社会に出ればいつもビリになるはめになるから小学校のうちから慣れさせておく、という解釈がもし存在するならそれも暴論です。

 

 

・普通学級に行くことで選択肢を増やしたい?

 

普通学級に行ってどれほど将来の選択肢が増えるのかよくわかりません。仮に大学に行かるための選択肢なら、それは選択肢を増やしているのではなく、単に大学に行かせたいという一つの選択肢だけを言っているだけのようにも思えます。

 

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以上いずれも、子供の実態がどうということではなく、結局は親御さん自身がとにもかくにも「普通学級に行かせたい」という思いを断行したいけど、親のエゴと言われないようにいろいろ正当化しているだけのように思います。

 

自分の思いを正当化することは誰でもすることですので悪いこととも思いません。しかしダウン症児が関わっている場合、それが本当にダウン症児のためになっているのかどうか、をつねに振り返ることができるかどうかが大事のようにに思えます。うまくいっっている「はず」ではなく常にしっかり真正面から現状を見つめることがダウン症児の将来のためになるものと思います。

 

もちろん子供の成長に正解はありません。何がよいのか判断しかねることも多いと思います。しかしそれをいいわけにして、親御さんの願望を押しつけるのではなく、つねに現状を見ようという姿勢、そして柔軟に対応しようという姿勢が大事だと思います。都合のよい話を聞いて心地よくなるだけでなく、都合の悪い話に怒り狂うだけでなく、です。

 

私がここで、あえて親御さんが聞きたくないようなことを書いているのはそのためです。私には親御さんのご機嫌よりも、ダウン症児の将来の方が大事だからです。そしてダウン症児の実りある成長のためには、親御さんの柔軟な姿勢が必要不可欠なのです。



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刺激による成長のイメージ図 [普通学級]

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・このイメージ図は、あくまでも私がイメージしているものを直感的に見ていただくためのものであって、何かのデータに基づいた統計資料ではありませんのでご注意ください。

・縦軸は、成長度数とでもいいますか、総合的な成長を表す指標のようなものとしてイメージして頂ければと思います。定義は存在しません。あくまでも感覚的な代物です。

・普段、理解できる小さい刺激をたくさんうける場合は、その時期その時期の理解が着実に定着していき、基礎が少しずつ固まっていき、さらなる飛躍への足場も固まっていくものと思えます。

・日常が理解を超えた刺激ばかりで、理解できる小さい刺激がほとんどない場合は、その時期その時期の理解がなかなか定着せず、あいまいなまま、いつまでも基礎がぐらぐらで、成長もちぐはぐになってしまうように思えます。飛躍どころか、停滞をまねく可能性が高いと思われます。

・上のイメージ図では、標準的な健常児とダウン症児の成長過程に、結構ながありますが、ここが、知的障害の知的障害たる部分であり、この差がなければ知的障害とは言わないでしょうから、これはこれで、これが「ダウン症なりの成長のスピード」として、早めに受け入れることが大事のように思えます。ダウン症児はダウン症児であり、健常児と同じようなスピードでの成長はあり得ないのだと、早めに親御さんが認識することが子供の精神衛生上にもよいことと思います。

・しかし、上のイメージ図におけるダウン症児どうしの差は、周囲の対応によっていかようにもなると思います。その時その時で周囲が臨機応変に対応できるかどうか、環境を変えることができるかどうか、にかかっているものと思われます。



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普通学級内での刺激 [普通学級]

 

子供は子供同士でいろいろな刺激を受け合いながら成長していきます。そういうことでダウン症児も健常児の中に入れればいろいろな刺激が受けられると考えて、とにかく健常児の中に入れておこう、とにかく健常児と一緒にするのがいい! といった発想をもってしまうことも少なくありません。

 

しかし刺激にも度合いというものがあります。自分のレベルにあった刺激ならばたくさん受けるのが良いですが、レベルを超えた刺激というのは効果があがるどころか、半減、いや激減する可能性があります。

 

私たちは自分が理解できない世界に接すると、たしかに一瞬は刺激を受けるときはあります。この「一瞬の」刺激はこれはこれでそれなりに大事なものだと思います。

 

例えば、高校生が夏休みなどに大学の公開授業などに参加するというは「わからないながらも」とても刺激になることでしょう。しかしだからといって、それから毎日そのわからない授業を受けても、やる気のある人以外は眠くなるだけでしょう。大学の授業は大学に入ってからやればいいのです。

 

また偉い人たちの小難しい話を「たまに」耳にして、それなりの刺激を受けるときもあります。しかしだからといって、毎日そんな小難しい話を聞きたいかといえばそうではなく、毎日続いたら刺激が苦痛に変わってしまう可能性が大です。

 

これらはみな一瞬の知的な刺激(程度を越えた刺激)です。たまに刺激を受けるから心地よいのであって毎日はちょっと勘弁してほしい、という類のものです。自分の理解を超えた知的な刺激というのは、たまにだから効果があるのではないでしょうか。

 

なので普段は、自分と同じ感覚や同じレベルの人たちと共に、それでも人間はお互いにみな微妙に違うものなので、お互いそういうところで少さい刺激をたくさんし合いながら成長してきたものだと思います。

 

つまり日常生活では、自分の理解をはるかに超えた空間ではなく、自分の理解できる空間の中で、程度にあった少さい刺激をたくさん受けるのが、特に子供の成長にとってももっとも効率が良く、効果的なもののように思います。

 

それでは、ダウン症児が普通学級内で同い年の健常者と毎日同じ空間で過ごす際にうける刺激とはどういうものなのでしょうか

 

☆成長するのに効果的と思われる刺激の条件:

・日常は理解可能な空間で過ごす。

 

・その中で、同じレベルの人たちとお互い少しずつわからないことを言い合ったりして、程度にあった少さい刺激をたくさんうけながら成長する。

 

・一瞬の知的な刺激(つまり程度を越えた刺激)を「たまに」うけながらさらに飛躍する。

 

☆普通学級内でのダウン症児の場合:

・日常が理解不能な空間になってしまう。

(これは、先ほど言った一瞬の知的な刺激(程度を越えた刺激)を毎日うけていることを意味し、刺激が麻痺して、刺激が刺激でなくなり、ときに苦痛になっている可能性もあり、さらには苦痛すら越えてしまっている可能性がある)

 

・その中で、周囲も自分のレベルをはるかに超えてしまっているので、話も程度にあわないことがほとんどになり程度にあった少さい刺激を受ける度合いが通常の場合よりも桁違いに少なくなり、成長はより遅くなる。

 

・一瞬の知的な刺激(程度を越えた刺激)を本来の意味で経験できないのでさらなる飛躍も期待できない。

(普段、理解可能な空間にいるからこそ、たまに程度を越えた知的な刺激を受けると新鮮に感じるものです。既述のように、毎日が一瞬の知的な刺激(程度を越えた刺激・大きい刺激)の連続では、刺激が麻痺し、刺激が刺激の意味をなさなくなるので、一瞬の知的な刺激の効用はほとんどなくなってしまいます)

 

 

特別支援学校などで知的障害者同士で過ごすと刺激が少なく成長が遅くなるかもしれないと思われる人もいるかもしれません。社会に適応できなくなるとい心配される親御さんもいるかもしれません。しかしそれは違うように思います。大事なのは日常生活で、レベルに適した小さな刺激をたくさん提供できる環境かどうか、ということであって、やみくもに健常児と一緒に過ごさせることではないと思います。普通学級に単に通ったというだけで、知的面でたいした知識も技術も身につけてこなかった人もいれば(正直に言えば乙女ちゃんがこの部類にはいると思います)、特別支援学校に通ってダウン症者なりに立派に知識や技術を身につけて働いている人もいます。

 

ダウン症児も、就学時においては、日常は理解可能な空間でさまざまな会話をしながら程度にあった少さい刺激を数多くこなすことでダウン症なりの成長(健常者の「ように」ではないことが大事)ができたまに一瞬の知的な刺激を経験すること(つまり健常者たちと何かを一緒にすること)、そして年齢の度合いに合わせてそれらを増やしていくことで、社会を知り、社会に適応する能力は十分ついていくように思われます。

 

少なくとも小さいうちから理解不能な空間の中で、レベルに見合わない刺激ばかりをうけ、刺激が麻痺し、苦痛すら越えて、単に「みんな(健常児)と一緒にいる」ということだけをよりどころにしているような日常生活を5年も6年も過ごすことが、発達段階の子供の成長に良いとは思われません。

 

普通学級に通ってよかったこと、という話をたまに目にすることもありますが、その内容は別に普通学級だったからという程でもないようなことも多い気がします。健常児と過ごさせたということを誇示したい気持ちもわかるのですが、親御さんの解釈が前面に押し出ているものがほとんどで、子供の心の奥底はどうだったのかなぁと思ってしまうものも少なくありません。

 

今日の普通学級も特別支援学校も様々なので一概にどうとは言えないでしょうが、上記のようなことも頭の片隅においてもらって、お住まいの環境や地域の対応にあわせて柔軟な考えの下で、ダウン症児の就学を考慮していただければと思います。



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ニコニコの裏側 [普通学級]

 

ダウン症者は明るく、いつもニコニコいていて、ときに天使であるといった比喩をされることがよくあります。乙女ちゃんも確かに明るいと言えます。普段はニコニコしています。でも、単純にニコニコしているから明るいとは言えないのです。

 

私が言うまでもないことでしょうが、ニコニコするのは彼女の防御本能なのだと思います。ニコニコするというのは彼女の経験上で一番無難な対応なのでしょう。(ただ、言い方を変えると、大人になってもヘラヘラしているということで、それが大人の世界では馬鹿にされる原因の一端にもなりかねないのですが、そういったことはなかなか学ぶことができず)とりあえずニコニコしていれば無難なのです。笑顔を見せれば笑顔の反応が返ってくることをつねに期待しているのかもしれません。

 

しかし、ときにこの笑顔がダウン症者の真の内面を覆い隠してしまい、身近にいる人間でも、いつのまにか誤解したり、その人に都合よく解釈されたりする原因にもなるような気がします。

 

例えば、私がある日、約束した日に行かなかったことがありました。そして次にあったときに「悪かったね」と気楽な感じで言い、彼女もニコニコしながら「いいよ」と言いました。

 

このときのもともとの私の正直な心情を言えば「どうせすぐ忘れるだろう」とたかをくくった気持ちでした。それでもってニコニコされたことでさらに無意識に「やっぱりな」といった気持ちが増大し、彼女のことを理解しているつもりでいながらも、自分で気づかないうちに安易な解釈をしてしまいがちになってしまったのです。

 

ニコニコ顔を見ると、仮にいやなことがあったりつらいことがあっても、一時的にそのときは不快だったかもしれないけど、後になればその記憶も薄れていくんだろう、とたかをくくってしまいがちなのです。

 

しかしこれは誤りでした。

 

1年数ヶ月後、なにかの拍子で「許す、許さない」の話題になりました。どんな話題かというのは置いておいて、そのときに乙女ちゃんは「3月□日にこなかったことはちょっと許せないなぁ」と言ってきました。いつの話かと思ったら1年前の3月か! 忘れるどころか日付までしっかり覚えています。しかもおそらくこの日はじめて思い出したわけではなく、常日頃思い出していて、たまたまこの日にはじめて言うチャンスがあったという感じでした。彼女はおそらく今後も忘れないのでしょう。こういったことはいくつかあります。

 

ダウン症者がニコニコするのは、許したり忘れているからではなく(そういう場合もあるでしょうが…)、無意識の防御としてニコニコしているだけで、内面では様々な思いが隠されているのです。

 

そんなことはわかっていると思っていても、ニコニコされると私たちはなんとなく本能的に安心してしまい、安易な解釈をしてしまいがちな気がします。

 

乙女ちゃんは普通学級をでました。つらかっただろうな、大変だっただろうな、と思っても、今のニコニコ顔をみると、でも今はなんとかやってる、と思いがちです。よくがんばった、よく乗り越えた、と思いがちです。しかし、がんばったじゃすまないくらいの葛藤を今でも彼女は、ニコニコ顔の裏でしているような気がします。

 

ニコニコ顔で話しているときに、なにかの拍子で、昔いじめられたことを思い出すときなど、一瞬にしてものすごく険しい表情になります。涙をためて「絶対に許さない!」と力を込めて言います。そしてすぐニコニコ顔に戻ります。彼女の内面ではいつもいろいろことが葛藤しているのです。

 

だからといってどうしようもないことなのですが、ただ、ニコニコしていることを何かの指標としてしまうのはまずいと思うわけです。ニコニコしているから明るい、とか、ニコニコしているからもう忘れたんだな、とか、ニコニコしているからもう気にしていないんだな、というのは必ずしもそうではなく、ダウン症者の内面は複雑でものすごく深いもののような気がします。



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周囲から学ぶ能力 [普通学級]

 

健常者の中にいればダウン症者は、そこからいろいろなことを自然に学ぶということを期待する親御さんも少なくない思います。しかし実際には、周囲からの働きかけが十分でない限り、自然に自分で学べることはそれほど多くないものと思われます。仮に、大人になってある程度のことを周囲から自然に学べるようになっているのだとしたら、それはしっかりとした働きかけや知識の教育が就学期になされていた事だと思います。

 

「学ぶ」というのは「真似る」ところから始まるとはよく言いますが、乙女ちゃんは大人になってもうわべだけ真似したままの状態で停滞してしまっていることが少なくなくありませんでした。つまり「学んだ」状態まで引き上げられていないのです。

 

例えば、以前に書いた"書き写す勉強"でも、勉強という行為をただうわべだけ健常者の真似をして書く行為をしているだけでした。書いてあることを理解しようという姿勢はなく、書いてあることを覚えようという姿勢もありません。そもそも書いていることが読めないのですから、そこから何かを得るというのは健常者でもものすごい高度な能力が必要になるでしょう。それに書き写すことが楽しくてしょうがないというのなら話は別なのですが、単に彼女はそれが「勉強」だと思いこんで、大変でも一生懸命やっていただけなのです。かわいそうなことに、身につくものはその労力に見合わないものです。

 

つまり彼女は、勉強という行為で、「書き写す」という真似の段階から「書いたことを考え、理解し、ときには記憶する」という本来の勉強の段階への移行ができないまま(知らないまま、あるいは学べないまま)大人になってしまったわけです。テストの時は0点が当たり前。私が冗談で0点を取ったと言ったら、彼女は喜んで「私もいつも0点だったから気にしなくていいよ!」と仲間を得たりといった感じでしたが、そんな状況で誰も勉強のやり方を教えなかったのか?たとえたくさん覚えられなくても、少しでいいから考えたり覚えたりすることが大事という意識付けをさせることくらいはできたのではないか、とも思うのですが、それなりの事情が学校にも家庭にもあるのでしょうからそれはおくとして、いずれにしても、いくら健常児の中で生活し続けても、適切な働きかけが十分になされないままでは、ダウン症者が自分で周囲から学ぶというのはそうそうできないことのようです。乙女ちゃんが大人になっても幼稚な行動や言動が多かったことも、健常児の中に「ただいるだけ」では自然に周囲からあまり「学べて」いなかった証でもあると思います。上の例でも、いつまでも「勉強」=「書き写すこと」という真似事で止まったままなのです。

 

ダウン症児は言葉の理解の遅れなどから必然的に「周囲から学ぶ能力」の発達が、健常児よりも遅くなると思われます。なので、就学期に、人からの働きかけを健常児以上にたくさん受けることで、その能力を少しずつ発達させていくことが必要なのだと思います。

 

乙女ちゃんの場合は、その「周囲から学ぶ能力」が、同年齢の健常児と比べたら相当未熟だったにもかかわらず、健常児と同様に自然に周囲から学ぶことを期待されて普通学級に入ったのでしょう。そこは健常児にとっては十分でも乙女ちゃんにとっては十分とはいえない働きかけの環境で、結局、周囲から自然に学ぶはずと思われたことも、彼女の当時の学べる能力をはるかに超えたものが多くて、ほとんど学べずじまいの学校生活になってしまったのではないでしょうか。

 

それでも彼女もいつまでも赤ん坊ではありません。学年があがるにつれて、ただ周りを見ているだけではだんだんつまらなくなったに違いありません。単に健常児に囲まれてたまに何かをしてもらったりするだけでは物足りなくなったはずです(親御さんや周囲は、それだけでも、よかったねぇ〜と言うから、なにか腑に落ちなくても、よかったという顔をしていなくてはいけない)。周りがしているように、自分が考えた話を聞きいてくれて、それに応答してくれる相手(大人でも子供でいいからとにかく他人)が欲しかったはずです。そういうやりとりを、たまにではなく、周りと同じように日々したかったはずです。周りが日々そうしてるのを否が応でも見せつけられているのですからこれは当然の欲求です。しかし彼女の環境では日々の実現はなかなか難しかったのでしょう。

 

仮想世界の仮想友達ならいつでも彼女の話を聞いてくれて、それに応えてくれます。周囲で意味のわからないことを話している健常児たちを観察し続けるよりは、仮想友達と話す方が楽しいでしょうから、健常児に囲まれていても仮想世界に浸りがちになるのも自然の成り行きかもしれません。しかしこれは周囲を見て感じる時間が少なくなることを意味し、すなわちそれは周囲から学ぶための前提が崩れることを意味しているわけですから、彼女が周囲から吸収する量もさらに一段と少なくなるという悪循環にもなり得たのだと思います。

 

さらには働きかけが十分でなかったのだから「周囲から学ぶ能力」そのものも未熟のまま、時間がだけが過ぎ、20代まできてしまったような感じがします。

 

「周囲から学ぶ能力」 これは黙っていれば自然にどんどん発達していく能力ではなさそうです。放っておくと真似の段階で止まったままです。真似の段階を乗り越えるステップを、就学期から周囲が意識し、少しずつでもしっかりと指導や後押しをして、いろいろな場面で自分でそのステップを踏めるように身につけさせてあげたいものです。

 

私は乙女ちゃんには、上の例の勉強に関しては「見た目だけ真似てるだけじゃだめだね」と言ってきました。ただし真似ることをやめてはまずいので、真似ることの重要性は話し、さらにそこから何をするかをことあるごとに話し合いました。「覚える能力があることはわかってるからね、ちゃんとその能力を使ってよ」と、ときにはおだて、そしておだてると調子に乗るのでときには突き放し、といったような働きかけを繰り返し行ったことで、彼女も少しずつ自覚できるようになっていったのです。



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普通学級 [普通学級]

 

乙女ちゃんは小学校から中学までは普通学級(通常学級)の中で生活してきたようです。小学校の話を聞くと、4年生の時にいじめられたことを真っ先にあげます。いじめた人の名前もしっかり覚えています。ただ、そのほかの事はあまり記憶がないようです。4年のときのことを覚えているのなら、5年、6年のことも何か覚えているのかと思えば、別段記憶に残るような出来事はなかったようです。

 

こういう事もあったでしょ、とうながせば少しは思い出すのでしょうが、まあ、彼女の小学校の記憶というのは、4年生の時にいじめられた事がメインで、それ以外のことは記憶にすら残らないほど単調なものだったということでしょう。学校に行っても、イベント的に何かをしてくれる場合はあっても、日々の話し相手はできず、結局自分の仮想世界を作ってそこで仮想友達と過ごすことが多かったようです。これはとても悲しいことですし、普通と思われる学校生活とも思えません。

 

中学校のときの思い出は、これまた、1年の時にからかわれたという事と、からかった人の名前の記憶が真っ先にあがり、さらに、2年のときの担任が大嫌いだったということです。「他にはどんなことをした?」「 … 」とくにないようです。中学校でも大半は、日々の話し相手がいないので自分の仮想世界をつくって、その中で過ごしてきたのだと思います。なので周囲との記憶がほとんどないようです。

 

健常児でも学校でひとりぼっちの子供はいます。そういう例をだして、彼女もそんな一人とこじつけることもできるかもしれません。しかし、健常児は仮に学校内で友達ができなくても、周囲と同等レベルの言葉はわかるので、周りで何をやっているのかを理解でき、周囲の流れに遅れずにすみ、周囲に入る挽回のチャンスはいくらでもあります。字も読めるので、本を読んだりして、自分の世界観や知識を広げることもできるでしょう。自分で行動もできるので、学校以外の仲間を見つける子供もいるかもしれません。

 

乙女ちゃんはというと、文章が読めないので読書などで世界観を広げることもかないません。周囲も、避けてるわけではないにしても、話がかみ合わないので、どうしても普段の日常では少し距離をおいた感じになってしまうことが多かったのではないかと思われます。そんな中、周囲で何を話しているのかも理解できないので日々の会話に入れず、結局、乙女ちゃんは学校でも自分の仮想世界を作り、そこで仮想友達と話すことが多かったのではないかと思われます。周囲とのやりとりの記憶がほとんどないというのはそういうことだと思います。

 

親御さんは、この子もよくがんばったんですよ、と言うのですが、私は、何をがんばらせたかったのかな、という感想をもちました。毎日、一日の大半を、学校で、健常児に囲まれてはいるけど仮想友達と話すこと(つまり独り言)が多い環境。それで日々、会話する健常者の友達ができたかといえばそうでもなく、楽しい思い出ができたかといえばそうでもなく、他の健常児と同じような学校生活をおくれたかといえばそうでもなく、知識が増えたのかといえばそうでもなく、日常漢字が読めるようになったのかといえばそれもなく、会話力が向上したかといえばそれもなし。しいていえば、つまらないときは仮想世界を瞬時に作り出すことができるようになったことくらいでしょうか。これでは彼女の9年間もの「がんばり」が報われていないような気がしました。

 

表面的に普通学級に通うだけで、中身は普通と思われる学校生活とはほど遠いもの。親御さんも少し意地になってしまったのではないか?と思いました。「普通学級に通うこと」=「普通の生活」という固定概念に縛られすぎてしまったのではないか。普通学級に通う権利は当然、知的障害者にもあります。しかし権利を行使することばかりに頭を奪われて、今目の前にいる現実の知的障害の子どもの能力にとってどのような学校生活が真に幸せかということがおざなりになってしまうのは本末転倒です(もちろん意図的におざなりにしている親御さんはいないでしょうが)。必ずしも「権利を行使すること」=「子どもの幸福」ではないでしょう。親御さんは世の中の理不尽さに怒りを覚えることもあるでしょうが、その理不尽さに対抗して、あるいは、「普通学級にいくのが普通だから」というシンプルかつ正当ではあるけれど形式的かつ浅はかでもあるこの考えを頭ごなしに押し通して、子どもの学校生活を犠牲にすることだけはないように願いたいものです。よくがんばったよね~、と親に促されて、横で複雑な笑みを浮かべている乙女ちゃんは印象的でした。

 

彼女は「普通学級を卒業した」という名誉よりも、もっと素朴で具体的なことをいろいろ経験したかったのではないだろうか。例えば、わからないことを友達と相談し合ったり、冗談を言いあったり、ノートを見せあったり、時には親には言えない悩みを話し合ったり(これは乙女ちゃんが実際に口にしていました)、等々。そういった周りが日々している素朴なことを、彼女も日々したかったのではないでしょうか。

 

そういったことを普通学級の中で他の健常児が知的障害者に対して日々してくれれば問題はないのでしょうが、それを子どもたちに要求するのも酷な話です。子どもというのは基本的に前に向かって前進していくものです。自分たちも周りに遅れないように必死なのです。自分たちが2,3年前に知ったことを、「同じ学年の」知的障害児が今やっと理解したとして話してきても、それに話をあわせてあげることなどそうそうできるものではないでしょう。

 

それでも乙女ちゃんは登校拒否をしなかったのでしょう。学校へ行かないことはいけないことという潜在的な罪悪感も既にあったことでしょうし、仮に転校などを促されても、なんとなくそれは親の意向とは違うんだろうなと感じ取る能力は持っていたはずです。複雑な心理ですが子供というのは仮に親に虐待されても親に好かれたいと思い、そこから離れないものです。学校の友達にからかわれても、あるいはつまらない学校生活でも、そういう世界しか知らないから、そこから離れることを恐れ、そのまま居続けたいと主張してしまうものです。こういった実質的には選択肢のない主張を本人の意志として安易に受け入れるべきか否か。

 

私には親御さんが悪いという思いはありません。その都度ベストと思われることをしてきたのだろうし、もろもろの事情があるのは他人の私にはわからないし、理解できないことなのかもしれません。私のように端で好き勝手に言うことは簡単なことです。

 

ただ、彼女に小・中学校の楽しい思い出がなく、学校での周囲との記憶すらあまりなく、しかし嫌だったことはしっかり明確に覚えているという事実。またそれがいつまでも彼女の心の奥底に暗い影を落とし続けているという事実。現状の普通学級に通わせるというのは、そうなるリスクがあるという事は、次の世代のダウン症者の親御さんたちには伝えていかなければならないことだと思います。

 

ダウン症児が普通学級に通って充実した学校生活をおくるためには、環境、運、親御さんの人(学校や他の生徒の親御さんなど)との交渉力・協調力、等々、様々な要素がうまく絡み合って初めて可能になるのが実状のような気がします。それらが見込めない場合は、意地にならず、別の選択肢を考慮に入れることが必要なことだと思います。

 

9年間は長いです。特に小・中学校の9年間は大人の9年間とはわけが違います。子供にとっての9年は永遠に近いくらい長く、かつ、成長するのにとても大事な期間です。ただでさえ健常児の倍以上の働きかけが必要なダウン症児が、そんな大事な期間に、健常児と同等、あるいはそれ以下の働きかけしかなされない可能性の高い環境に何年もいては、ダウン症児の成長は非常に限定的なものになってしまうでしょう。そんなことを上回る「何か」がその環境に存在するのであれば話は別ですが、そうでない場合は、親御さんの柔軟な対応が求められると思います。

 

周囲がまだ幼稚な最初の23(小学23年)くらいは、健常児と一緒にいさせるだけでも有効かもしれません。しかしそれ以降は、健常児とか普通学級とかそういったことにこだわらず、実際に日々の会話をしあえる人がいそうな環境を探して(それが普通学級であればそれはそれでよいです)、そこで日々、生の人と会話を交わしながら学校生活をおくることが、一番、普通と思われる学校生活なのではないかと思います。これから就学を迎えるダウン症児の大事な9年間が、大人の理想、意地、こだわり、あるいは希望的観測等で埋没されないことを願うものです。



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